大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

最高裁判所第二小法廷 昭和53年(オ)861号 判決

上告人 梅田藤吉 ほか四三名

被上告人 国 ほか一名

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人らの負担とする。

理由

上告代理人池田輝孝、同駿河哲男、同谷村正太郎、同根本孔衛、同杉井厳一の上告状記載の上告理由及び上告理由書記載の上告理由第一ないし第四について

原審が確定した事実関係によれば、(一)新島本村においては、明治一四年四月一八日施行の島吏職制によつて従来の同村の行政組織である島地役人、地役人、名主、年寄等に代る職制として東京府知事の任命にかかる地役人、名主一式引受人、年寄が設けられ、これと従来から存在した村民一同の意思決定機関としての惣代六名からなる村寄合とによつて村の行政組織が構成されるに至り、明治二八年五月二一日には東京府知事の認可を受けて村寄合規約が定められ、村寄合は多数決制をもつて村有財産の処分又は維持方法を決することとされ、しかも村寄合の構成員たる惣代の選挙には本戸半戸以外の村民にも選挙権が認められた、(二)次いで大正一二年一〇月一日施行の島嶼町村制によつて地役人以下の島吏が廃止され、支所長、村長、吏員、村会の制度が設けられ、村有財産の管理処分、村費の徴収等は多数決制による村会の議決事項とされ、本戸半戸以外の村民にも選挙権が認められ、更に昭和二三年の地方自治法施行によつて村長、村議会が設けられて今日に至つている、(三)明治一九年九月二四日東京府知事から下渡された本件山林を含む山林原野は、名主一式引受人によつて管理され、前記村寄合規約施行後はその管理が村寄合の議決事項とされ、島嶼町村制施行後においては、行政主体たる新島本村の基本財産としてその管理は村会の議決事項とされ、昭和二九年一〇月一日の若郷村との合併後は、合併後の新島本村の村有地とされて役場備付の帳簿に村有財産又は基本財産として記載されている、(四)新島本村においては、村有財産の管理処分につき、大正年間村有財産管理規則が、昭和一五年一〇月村財産管理規程が、さらに昭和三四年村有財産条例並びに契約の締結及び議会の議決を経べき財産又は営造物に関する条例が順次制定施行されたほか、大正一二年村有椿林貸付規則が、昭和一七年四月新島本村部分林貸付規則が、昭和三四年九月新島本村山林条例が順次制定施行されたが、これらの規則、規程、条例はいずれも所定の手続を経た有効なものであり、本戸半戸とそれ以外の村民との間に何らの取扱上の差別を設けていなかつた、(五)新島本村においては、本件山林を含む前記下渡にかかる山林原野につき、明治年間以来、立木を本戸半戸を問わずすべての村民に払い下げてその代金を村の歳入とし、大正年間以来、村会ないし村議会の議決に基づき同村内外の団体又は個人に対して山林原野の一部を譲渡するなどしてその代金等を村の歳入とし、大正一二年には東京府知事の認可を経た前記椿林貸付規則に基づいて山林原野の一部を部分林として村民に貸し付け、その貸付料を村の歳入とし、また村会ないし村議会の議決に基づいて右部分林の一部貸付を解除してこれを村民以外の第三者に貸付けるなどしているほか、前記下渡にかかる山林原野の一部における造林事業のために、これに要する費用を村の歳出予算から支出し、前記山林の椿の実や薪の採取等を村当局の管理監督のもとに行つて来ていた、というのであつて、右認定は原判決挙示の証拠関係に照らして肯認することができる。そして、右事実関係から知ることのできる行政主体としての新島本村の成立経過や明治一九年九月二四日の下渡にかかる本件山林を含む山林原野が本戸半戸以外の住民を含む村民の選挙による代議制をとつた村寄合、村会、村議会等における多数決による議決に基づいて村有財産として管理処分され、あるいは村当局の監督下において村民に利用されてきたなど、右山林原野の管理利用について部落による共同体的統制の存在を認めるに由ない諸事情に照らすときは、右山林原野の所有権が行政主体たる新島本村に帰属していて、これに対する共有の性質を有する入会権はもとより、共有の性質を有しない入会権の存在も認め難いとした原審の認定判断は、結局、これを正当として肯認することができ、その過程に所論の違法があるものとは認められない。論旨は、ひつきよう、原審の専権事項である証拠の取捨判断、事実認定を非難するか、又は原審の認定にそわない事実あるいは独自の見解に基づいて原判決を論難するものであつて、採用することができない。

同上告理由書記載の上告理由第五について

上告人らが本件山林について入会権を有しないとした原審の認定判断を是認することができることは、前項説示のとおりである。してみると、右入会権の存在を前提とする所論は、所論違憲の主張を含めてその前提を欠くか、又は原判決の結論に影響のない説示部分を論難するものにすぎない。論旨は、採用することができない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判官 栗本一夫 木下忠良 鹽野宜慶 宮崎梧一)

上告状記載の上告理由

一、原判決は明治一四年四月一八日東京府知事達示「島吏職制」の解釈を誤り、当時の新島本村を抽象的公法人と認定している。しかし、当時の新島本村は、大正一二年一〇月一日に施行された島嶼町村制以前の幕藩制下の村と法的本質を同一にするものであつて、後に部落となる生活共同体としての側面が一体となつて存在していた実在的総合人であつた。したがつて明治一九年に東京府が本件山林を下げ渡した相手は、この実存的総合人である新島本村であつて、二審判決の認定した抽象的公法人である新島本村ではない。二審判決は当時抽象的公法人である新島本村がすでに存在し、これが本件山林を下渡をうけ、そのまま被上告人新島本村にいたつているとして上告人らの入会権の存在とその行使を否定して上告人らを敗訴せしめている。したがつて右の法令解釈の誤りは判決に影響を及ぼすことは明らかである。

二、二審判決は明治九年一〇月一七日太政官布告第一三〇号各区町村金殼公借共有物取扱土木起功則、同二〇年一一月内務省訓令第四七号、明治二一年四月一七日法律第一号町村制、明治二一年六月内務省訓令第三五一号に使用されている「共有」の法意を誤り、これを抽象的公法人である町村の所有としている。本件山林が明治一九年に下渡になつた文書の「共有」を右の意に解し抽象的公法人である新島本村がこの所有権者となり、大正一二年一〇月一日島嶼町村制の施行により被上告人新島本村にひきつがれたものとする。しかし、町村制施行前の「共有」は実在的総合人である町村の総有物をさすものであるから二審判決の解釈の誤りは明白である。本件山林については、右島嶼町村制実施にあたつて抽象的公法人である被上告人新島本村にその所有をうつす手続は何もなされていずそれどころか本件山林の主要部分は上告人らとその先代の間に分割、利用をして共有の性質を有する入会権の保存をはかり、今日にいたつてもその行使をしている。右の法解釈の誤りがなければ上告人らの勝訴はあきらかであるから、右の法令解釈、及び適用の誤りは判決に影響を及ぼすことは明白である。

三、二審判決は右のほかに幾多の誤りをおかしているので、上告理由書においてそれらを詳述する。 以上

上告理由書記載の上告理由

第一上告人の主張ならびに証拠によつて証明された事実

上告人の主張ならびにこの主張が証拠によつて証明された事実は、上告人が第二審に対して昭和五二年一二月三一日付準備書面に要約してあるので、上告にあたつてもこれを援用するものであるが、上告理由を明らかにするにあたつてその骨子をのべておくことも無益ではないであろう。

一、明治一九年、東京府から新島本村に「共有」として下渡された本件山林を含む山林原野は、明治維新前は「村山」として新島本村氏が古典的な共同入会形態をもつて利用してきた入会地であつた。これは右下渡の文書である<証拠略>等から明らかである。

二、新島は徳川幕府の直轄領地即ち天領であり、幕府は江戸代官、韮山代官等をして統治せしめておつたが、本件山林等は領有の対象地であつたが、それを直轄林として直接支配していたものではなく、その進退は新島本村にまかしていたものである。

三、維新後も新島においては地租改正は、行なわれなかつたが、官民有地区分は実施されたものと思われる。そうでないとすれば、<証拠略>の「官有地御下附願」という表現がなされないはずである。

四、その結果として、本件山林等は官有地となつたが、いずれにせよ明治一九年に東京府から新島本村の「共有」地として下渡された。当時の新島本村の性格は、幕藩制下の村と本質を同じくする実在的総合人である村であり、後年分離するところとなる。行政単位としての村の側面と生活共同体としての村の側面とが混然一体となつていたものであつた。大正一二年の島嶼町村制実施までのこされていた名主等の村役人は統治機構の末端につらなるものであると同時に村民の代表者としての性格をかねそなえたものであつた。

五、右の「共有」とは実在的総合人の所有にかかるものであり、その「総有」である。本件山林等は右下渡後新島本村村民の「共有」物として、その前と同様に薪、椿の実、屋根葺の材料の茅、石等村民の生活の必需品として共同入会のかたちで村民に利用されてきた。

六、大正初年になされた明治一九年の下渡地にふくまれている向岩山の一部が、新島本村から、外来の石材採取業者に採掘許可されたことは、その部分の入会権行使が共同入会から団体直轄利用形態に変化したものである。この「共有」地についての村当局の措置に対して、村民の総寄合によつて契約無効と村民の個人有としての共有権確認の訴がなされた(石山事件)が、訴訟外で和解がなされ、石山は部落有地であること、新島本村名主の採掘許可は部落代表の資格においてなされたものであることが確認された。

七、本件山林等は、右の石山事件のあとをうけて、大正八年から一一年にかけて、新島本村村民間で部分林として分割され、その結果、薪についての共同入会はなくなつた(共同入会から分割利用形態への変化)。この部分林の割当をうけた者は、実在的総合人である新島本村の本来の構成員である本戸(約三四〇戸)が各二個所、半戸(約三〇戸)が各一個所であり、その他の約三〇〇戸はこの分割から除外された。

八、大正一二年一〇月一日から新島本村に島嶼町村制が実施された。その結果実在的総合人である新島本村は、抽象的公法人である被上告人新島本村と生活共同体である新島本村部落に分離されることになつた。

これによつて、それまでの新島本村の「共有」財産も分割されることになるが、その際特別の措置はとられていないので、「共有」財産中、行政的公共的目的で保有された財産は抽象的公法人へ村民の共同生活のために利用されていたものは、新島本村部落有となる。ことにこの分離以前から村民間に分割、利用されていた、本件山林をふくむ部分林については部落有であることはあきらかである。

九、島嶼町村制の施行によつて、離島である新島の生活実態が一朝にして変るものではなく、また新島本村は一村一部落の状態が昭和二九年若郷村との合併の時まで続いていたので、村当局者も、村民間でも行政村と部落を分離して運営する契機が乏しかつた。この意味において新島本村の実在的総合人性は島嶼町村制実施後も実質的に継続されていた。このために部落有である本件山林等の管理に村当局が一部関与することがあつたが、私有地の椿の実の採取についても共同体規制がなおつづけられてきた。

一〇、新島本村部落においては独自の入会管理団体はできていないが、これは入会権の主要な対象地が部分林として分割利用形態をとつており、特段の維持管理を要しないことにある。また、行政村の運営の実際で実在的総合人性が残されていることにより、部落の仕事を村が一部代位しているという新島の特殊性によるものである。本件山林等の管理は、この側面からなされたものであり、したがつて部落有財産の処分等重大な事項は部落構成員の同意を要する。第二次大戦後も茅生地が本戸間でのみ分割され、自家用石山の村営への移行はこの同意があつて、はじめておこなわれた。本件山林についての入会権の廃止、国への売却が重大な処分であることは明白であり、本件訴訟はじめこれに対する村民の反対があるかぎり、総有資産の処分として、無効であることまた明白である。

第二本件山林等下渡当時における新島本村の性格及び「共有」についての法解釈及び適用の誤りについて。

第二審判決が上告人らの入会権を否定する判断の誤りは、東京府から明治一九年に新島本村に対して本件山林等が下渡になつた当時の新島本村の性格と「共有」の解釈を誤つたことから、出発している。第二審判決は、当時のこれに関する法令の解釈を誤り、あるいはその適用を誤つて、すでに新島において抽象的公法人である新島本村が成立しており、右下渡は、これに対しておこなわれたものであるとし、したがつて、その下渡文書にある「一島又ハ一村ノ共有」を抽象的公法人の所有と解した。

その判断からして、本件山林を行政村である新島本村が、その所有者としてこれを管理し、新島本村民のこの利用は単に行政村によつて許容されたものにすぎないとしている如くである。その結果二審判決は、その後の村民の入会権の存在とその行使を示す事実、すべて無視するかあるいは曲解して経験則に反する判断を積み重ね、入会権否認にいたつているのである。したがつて、二審判決の明治一九年当時の新島本村の性格とこれに関する法令の解釈と適用の誤り及び「共有」についての当時の法令の解釈と本件山林等についてのその適用の誤りは、判決に影響を及ぼすことが明らかである。

一、幕藩制における本件山林等の性格

(一) 本件山林等は明治一九年に東京府から、新島本村に「一島又ハ一村ノ共有」として下渡になつたことは当事者間に争いがないのであるから、本裁判の判断はこの事実を出発点とすればよいのであるが、幕藩制下の本件山林等の性格の理解が、この出発点の判断に影響していると思われるのでこの点についても若干ふれることにする。

(二) 新島が幕府の直轄地即ち天領であり、江戸代官あるいは、韮山代官によつて統治されていたことは争いがない。この事実は、新島が徳川家の領有の対象であつたということであり、薩摩が島津家の領有の対象であつたということと、法的性格に違いはない。領主の代官の支配は、領有権の行使であつて、近代法の意味の所有権の行使ではない。土地についていえば領主の領有のもとに領民の「所持」「進退」「支配」等とよばれる事実上の占有(近代法上の占有の如く明確に所有に対立するものではない)とその利用が成立つのである。田畑についていえば領主は領民をしてこれを耕作せしめるが故にそこから生ずる米麦その他の収穫物を貢租として納入せしめ、その生存と支配を続けることができるのである。山林については、秣草肥の基盤として農業の再生産を保障し、また、建築材料、薪の産出地として領民の生存を続けさせるための必需物として、同じく領民に「進退」せしめているのである。(戒能通孝「入会の研究」五一五頁以下、日本評論社昭和三三年)

山林の中には、尾張藩の木曽檜林、佐竹藩の秋田杉林のごとく、領主が直轄経営林として、「公儀山」「御林」「御立山」などと呼んで直接支配しているものがあるが、この場合は領有と所持が領主において統一されているのである。このような山林と領民が秣場、茅場としつ多くは入会のかたちで「進退」し、利用している「村持山」「村山」「入会山」等とよばれていた山林は明白に区別されなければならない(福島正夫「地租改正の研究」第三編第一章、有斐閣昭和三七年)。

本件山林の場合はどうかといえば、二審判決三二丁でもいつているとおり「本件山林を含む山林原野は、東京府知事により下渡される以前から村山と称され、新島本村の村民が薪や椿の実の採取等に利用していたことが認められる」のであり、<証拠略>の下附願にもあるとおり「該地所ノ儀ハ島方ニテ村山ト称シ従前要用ノ節ハ一村協議ノ上樹木伐採致シ末候場所ニ御座候」という山林であつた。これは幕府の領有地であつたが、直轄山林ではなく、農民の支配地であり、進退の場所であつた。

二審判決三三丁は「本件山林を含む山林原野は、右代官の下部組織としての名主が幕府の土地として支配管理していたものであり、薪や椿の実の採取ないし平坦な地域の使用等は、名主が地役人の承諾を得て村民に許可するか、暗黙のうちにその使用を許可していたものであるがその後明治政府は廃藩置県によつて、これを引継ぎ、その下部組織としての名主が、明治政府(国)の所有地として、従前どおり支配管理していたものと認められる。」としている。

ここに読みとれるのは、二審判決は幕藩制下の領有権と近代法の所有権の区別がわかつていないことである。況んや領主の領有地の山林中に、その直轄山林と領民に進退せしめている山林があることなどは、眼中になく、領有権を所有権に短絡させて、領有権を絶対的権利にしてしまつている。

明治維新によつて、地租改正がなされ、幕藩制下の封建的権利が再編成されて、領民の土地に対する「所持」「進退」の権利が、近代法上の私的所有権となり領主の所有権は、国家の領土権と租地徴収権という公権に変つていつた意義を、二審判決は、全く理解できないのである。二審判決の立場は、人民の権利の否定であり、判決文中の「平坦な地域」即ち田畑も領有の対象であつたのであるから、維新後は明治政府の所有物となつたという帰結になる。これが謬論であることはいうまでもない。

(三) 二審判決三三丁は「新島本村においては地租改正は行なわれず、従つて本件山林が地租改正によつて官有地に編入されたことはなかつたものと認められる。」としている。地租改正が行なわれなかつたことは事実であり、その故に明治後も特異な村制と土地制度がながく続いたのであるが、これだけで官有地編入がなかつたとはいわれないであろう。そもそも幕藩制下では「官林」とか「官有地」という言葉は使用されていなかつた(福島同書五二八頁。)明治六年三月太政官布告地所各称区別が官有地という用語を導入したのであるが(福島同書五三七頁以下)、<証拠略>が「官有地御下附願」となつているのは、願の作成日付である明治一六年四月二〇日以前に、官有地編入がなされないとすると筋道がたたない。二審判決の独断といわなければならない。

しかし、本件山林等は「各所公園山林野沢湖沼ノ類旧来無税ノ他ニシテ官簿ニ記載セル地ヲ云」として官有地に編入すべきものではなく、同区別によれば公有地「野方秣場ノ類郡村市坊一般公有ノ税地又ハ無税地ヲ云」にあたるべきものであるが、この公有地は、明治七年太政官布告第一二〇号による右「区別」の改正と官有民地区分の実施を命じる同年太政官達第一四三号により整理され、公有地のうちの村持山林は民有地第二種に属するものとされたので、(福島同書六〇〇頁以下)これに対応して右下附願がなされ、民有地として願いがききとどけられたのである。

(四) 二審判決のように官有地編入がなかつたとすると、新島の本件山林等は「幕府から領有権に慶応四年一月のちの明治政府にうつつた時以来、明治政府の封建的領有の対象地であつたということになる。すると右判示の「名主が明治政府(国)の所有地として従前どおり管理していた」ということは矛盾である。

いずれにせよ、二審判決は、幕藩制下の法制と明治政府下の近代法制の区別がつかず、またその過渡期の法制についての考察についての用意が全くなかつたことが、右の所有と領有及び所持の関係についてだけでも明らかである。

二、明治一九年当時の新島本村の性格

二審判決は、右の一(二)に引用した判示部分及び二八丁において、名主を幕府の代官の下部組織としており、また維新後は明治政府の下部組織と判示し、村民に全面的に対立するものとし、本件山林等はその支配管理のもとにあつたとして、村民のその利用の権利性を否定する根拠にしている。この前提は、下渡後の本件山林等の所有関係及び村民の利用の権利性の判断につながるものであるから、その誤りを正す必要がある。

(一) 封建制下においては、領主は土地を領土とするのみか、人民をも領民として、領有の対象としていた。農民は、耕作地及び住民地の保有を認められるとともに、その土地を耕作する義務及び貢租を納める義務を課せられており、耕作をやめたり、その土地から、離れたりすることはできなかつた。即ち、自由な民ではなく、強力によつて土地に緊縛されていたのである。

幕藩制も進むと封地を与えられていた家臣は単なる蔵米取りにかわつたので、特に遅れた地域を除いて、領主が代官をおいて、領民を統治し、貢租もそれを通じて収納していた。貢租の収納は、領有の中心の内容であるが、貢租は、領民個々に課せられるのではなくて、領民の集団である村に課せられ、それを受けた村が各村民に対して割付を行う(石井良介「日本法制史概説」創文社昭和三五年四四六頁以下)。村は、一定地域の住民の団体であるが、また一定の行政的土地区劃であり、土地封与及び租税賦課の対象であつた。村は村民の自治体であり、名主(庄屋)、組頭(年寄)、百姓代の村役人があり、協議の機関として村寄合があつた。名主は村の代表であり、村民によつて選出されたが、代官が承認した(石井、同書四三五頁以下)。

幕藩制下の村は、村役人総百姓の総体であり、また村として、公租を負担し、訴訟をなし、財産を所有し、法律行為をなしうる等自ら権利義務の主体である単一体であり、さらに各村民の人格と分難独立した抽象人ではなくし、各村民の人格に依つて組成され、各村民の人格によつて支持されている所の総合人であつた。これを一言にすれば、実在的総合人であつた(中田薫、法制史論集第二巻、岩波書店昭和一三年九八四頁)。

村が、このような法的性格をなされるのは、幕藩側の統治の便宜ということもあるが、それを可能ならしめる基盤として村民間の共同生活があつた。

主要作物である水稲耕作のための水利、肥料、飼料としての秣、燃料、建築資材としての草木等についての管理をはじめとして葬祭婚礼にいたるまで、村民の協力なくしては生活がなりたたなかつたのである。経済の商品化が進まず、賃労働者も萠芽状態であつた当時における村落の生活は、現物経済、自然経済、である。人と人との結びつきは契約関係が主となる現今と異なり「ゆひ」その他の協力、共同関係をはじめとする共同体的結合が主要なものであつた。即ち村には生活共同体としての実体があつたのである。

「従つて、村方に於ける名主、庄屋、もしくは組頭等の村役人は、一面に於て「上の口真似」をする村落統治者たる性質を有するとともに、他面生活協同体としての村を代表する世話役たる性質をもち、かかる資格に於て入会地管理の業務を執行した」のである(戒能前掲書二七九頁)。二審判決の右判示のように、名主を幕府の代官の下部組織としてのみとらえるのは一面的な判断という批判をまぬがれないのである。名主が村民から選出される代表であることが、本体であり、村地及び村民が領有の対象であることからして、名主は領主の代官の下部組織でもありえるのである。

前述のように、新島の本件山林等は、幕府の直轄経営林ではなくて、村山であり、「要用之節ハ一村協議ノ上樹木ヲ伐採」<証拠略>してきていたところであるから、名主のこれに対する関与も、代官の下部組織としての面からではなくて、村及び村民の代表としてこれに当つてきたとみるのが当然である。

二審判決のこの部分についての判断は、幕藩制下の村制の解釈を誤り、右証拠の評価において経験則の違背がある。

(二) 二審判決は右のとおり幕藩時代の名主を代官の下部組織としたのみならず、維新後も明治政府の下部組織として、その所有地としての本件山林等を従前どおり支配管理していたという。これを文字通りに読めば、明治政府は徳川幕府にかわつて領主となり、廃藩置県後も新島を領有地(但し、二審判決は領有と所有の区別がつかないので所有地と表現している)として、その下部組織である、名主をして、支配管理せしめていたということになる。

明治政府は戊辰戦争の結果、幕府から領地をうばい、明治二年各藩主から版籍(領地と領民)を奉還せしめて、法制的には、日本の全土の領主となつたのであるが、明治四年の廃藩置県以来の諸施策は幕藩制から近代制への改変の道であつた。戸籍制度、地租改正、徴兵制、学制、地方制度などの改革はこの過程であつた。新島においては、地租改正が行われず、近代的地方制度の導入が遅れたことにおいて、他の地域と大いに異つたところがあつた。右判示の新島山林を明治政府の所有地とするのは誤りであるが新島をその領有地とみれば実情に近い。

(三) 二審判決は新島について、「明治四年四月四日太政官布告第一七〇号戸籍法が公布され、区及び戸長、副戸長が置かれ、戸籍を取扱うこととなり、戸籍は家を単位とし、戸主を筆頭者とするものであつたが、明治五年四月九日太政官布告第一一七号により、荘屋、名主、年寄の称号を廃止し、戸長等を置き、戸籍事務以外の事務を取扱わせることとなつたこと、明治一一年七月二二日太政官布告第一七号区町村編成法により区域名称は旧により、町村ごとに戸長一名を置くことが定められ、新島本村も明治の法制下において村として存在することになつた」(二九丁)としているが、このような法制の変化は他の地域については、そのとおりであるが、新島に適用されたということは疑しく、適用の事実を示す証拠は存在しない。むしろ証拠は、これらが適用なかつたことを示している。

<証拠略>の歴代の代官、地役人、名主表によれば、代官が明治二年以降なくなつたのは当然として、地役人については、前田筑後守(道雄)が嘉永六年から明治二八年までつとめ、明治二八年から、明治三二年までは海老原豊明が就任している。名主についても大正一二年島嶼町村制施行により、前田清が村長となるまでは、幕政当時から名主職が継続している。

判示では、明治一一年太政官布告第一七号は「区町村編成法」となつているが、その正式名称は「郡町村編成法」である。その一条が「地方ヲ劃シテ府県ノ下郡区町村トス」とあるように、府県と町村との間に郡を行政区画とし、その機関として官吏としての郡長をおき、中央の統制を貫徹しようという企図をもつていた(福島正夫、徳田良治論文「明治初年の町村会」、「地租改正と地方自治制」所収、昭和三二年、御茶の水書房、一二七頁、一三六頁)。ところが新島に関していえば、明治三三年に大島島庁が設置され、新島は大正九年に同庁の管轄に入り、同時に島庁出張所がおかれたことになつている<証拠略>。また島庁出張所長が着任するとともに地役人はなくなつている<証拠略>。即ち、新島と東京府の間には郡もおかれず、郡長もおかれていないのであつて、これは、右布告第一七号が新島に施行されていなかつたことを示すものである。この布告と同日に出された太政官号外達にはその施行順序が、定められているが、「それによれば、郡区町村の編成はすみやかに改正されることを要求してはいるが、事情により施行に緩急をつけることを地方に一任している」(亀卦川浩「明治地方制度の成立過程」東京市政調査会、昭和三〇年、四七頁)ので、新島での施行はなされなかつたのであろう。

また、明治四年太政官布告第一七〇号による戸長等の設置及び明治五年太政官布告第一一七号による荘屋、名主、年寄等の、村役人の称号の廃止と戸長、副戸長への改称についても「地方の状況に依て別に戸長、副戸長を置かず、従来の名主、荘屋、年寄等をして前者の職務を担当せしむることを許していた(中田、前掲書一〇八七頁)のであるから、これらも新島では行なわれなかつた。乙第三三号証の中で、明治三一年当時の地役人田辺卓が「本島ノ状況タル戸籍ハ現行法ニスラ遵由セサルモノアリ」とのべている実情と照応するのである。

これら諸布告が新島にそのまま施行され、その内容が実施されたとする二審判決の右の判示は法令の適用を誤つているか、少くとも現実には右諸布告は新島の従前からの制度をかえることがなかつたことを看過していることを示すものである。

なお、<証拠略>、明治二二年勅令第二号の引用として、「伊豆七島ハ戸長以下ノ給料旅費併浦役場費ハ従前ノ通国庫ヨリ支給スト定メラル」とあつてあたかも戸長が現実にいたかの如くみえるが。後記のとおり明治一四年施行の島吏職制では戸長はないことが明白であるので、この勅令にいう「戸長」は前記布告類が施行されている他、地域の戸長に比定されるべき地役人を指すものと考えられる。

(四) 明治一四年の東京府知事の達示による島吏職制の施行は、二審判決のみているような新島村制の近代法化ではない。右の示したように幕藩制以来そのまま放置されてきた村制に対して、達示のかたちで、新制度下でも公認したものにすぎない。近代法化された東京府に、幕藩制そのままの新島本村の法制が接木されるという奇妙な事態であつたが、これは近代化が上から進められるという明治維新の一般的性格にもとずくものであり、また新島が当時は交通不便な僻遠の離島であつて改革からとりのこされていたことによるのである。右の地役人田辺卓の意見によれば、

「伊豆七島ノ制タル一種特例ニシテ万已ムヲ得サルニ出タルモノトハ存候得供令ヤ条約改正及新法典ノ実施期ニ際シテ如此憲政ニ伴ハサル制度ノ現存スヘカラサルハ吏ニ贅弁ヲ要セサル」<証拠略>

ものであつた。

これを内容について検討すると、第一に、地役人、名主、年寄と幕制時代の村役人の名称をそのまま使つている。

名は体をあらわすというが、二審判決二九丁から三〇丁にかけて判示されているところにしたがつて、それらの任命方法は旧幕時代のものと全く同様であつた。二審判決は、名主の東京府知事の任命をもつて、これを近代化とし、明治政府の下部機関とみるようであるが、幕政時代でも、実質は村民が選出し代官が任命しているのであるが「さればと云つて此村役人を以て、幕府領主地頭等の任免する純然たる地方行政官吏であると解するのは誤りである。何となれば、村役人は彼等支配権者に対しても、小前惣代と共に村を代表するものであるからである」(中田前掲書一〇八二頁)。任命者が東京府知事にかわつたからだけでは、その性格がわかるわけのものではない。

地役人の事務についてみると、それが主宰する「島役所ノ事務ハ行政本務ノ外警察収税及区裁判所権限内民刑事件ニ至ル迄一任」されている<証拠略>。これが島吏職制<証拠略>にいう「一島ノ事務」であり、名主はそれに「地役人ノ監督ニ従ヒ村内一切ノ事務ニ従事ス」とあるから、新島本村、若郷村の各名主は、村務としてこれを行うことになる。これは、幕政時代の村方の仕事そのものである。

年寄が「名主ヲ輔ケ名主事故アルトキハ其事務ヲ代理スル」ことも幕政時代と同じである(石井、前掲書四二七、四三七頁、中田、前掲書一〇八三頁)。

村方の任務の筆頭は、領主、地頭、代官が発布した御触の村民への伝達執行であつた。であるから、村役人は、お上の口真似をするといわれたのである。島吏職制ではそれが「地役人の任務で「第一、知事ノ命ヲ受ケ布告諸達ヲ島内ニ施行」する」こととなつている。

地役人は、明治二八年、地元の神職であつた前田道雄が退任してからは、東京府から島外人が派遣されてきているから、いかなる意味でも、島民の代表ということはできないが、これは明らかに代官の手代の役割である。徳川幕府が明治政府にかわり、代官が廃止されて、府県が制定されたので、地役人は政府の官吏となつたが、その事務の内容、村民に対する関係からして、その本質に変りはなかつた。

(五) 島吏職制は村の意思を定める機関として、島寄合と村寄合と定めている<証拠略>。

村寄合は旧幕時代に村の重大事項は村民がそこで協議し決定した。「此寄合は、其の本質に於ては複多的総体としての組合体の総会に近かき性質を有し、従て其決議も其本質に於ては、総村民の共同意思と見るべきもので、唯それが特定の場合に単一総体としての村自身の意思として、村役人百姓惣代に依て、外部に表示さるる限りに於て、此寄合は村自身の意思機関たる職分を勤めて居たに過ぎない」(中田、前掲書一〇八三頁)。

村寄合は通常村民(村の正式構成員)の総寄合であるが、(石井、前掲書四三七頁)、惣代による寄合もおこなわれた。島吏職制上の村寄合は、年寄と村民惣代による寄合であつた。が、後の石山事件のように村民の生活に重大な影響を及ぼす特別事項については総寄会も行われた。寄合は全員一致制を建前とするが(福島、徳田前掲論文、同書一四三、一四八頁)、島吏職制の村寄合は多数決原理によつているかの如く見える(<証拠略>)。しかし、一方では「村寄合は専ら相談の体を用ゆ」(同第二一条)とあつて協議による一致がはかられ、幕政以来の参加者の意思統一がはかられている。

この構成員についてみても、近代的な代議機関でないことがわかる。

年寄は「名主ヲ輔ケ名主事故アルトキハ其ノ事務ヲ代理ス」とあつて、新島本村が町村制下の村であるとすれば、助役にあたるものであり、理事者の一員ということになる。理事者が決議機関に入り、決議権を行使することは近代法制ではありえない。また名寄が議長をつとめ、可否同数のときに決定すること(同第一八条、第二〇条)も同様である。ここからして当時の新島が近代法的自治の代議制の決議機関でないことを証明している。

村寄合の他の構成員である村民惣代も近代法的自治体の代議員とは異なるものであり、惣代と議員は対立する概念である。「総代なる語は、一団を成す多数人の一部たる其中の一人又は数人が、全体を代表する場合(Pars pro toto)に於て最妥当した語である(中田、前掲書一〇〇八頁)。したがつて惣代は代表される集団の具体的意思を代理するものであり、それに拘束されるが、代議員は抽象的な団体の意思を決定するための機関であつて、その意思表明はそれを選出した集団の意思に必ずしも拘束されない。惣代はそれによつて代表される集団の共同体的結合を前提とするので、近代法的自治体の運営には適さないものとされ、明治政府の自治体改革は惣代制から議員制への発展と相剋の歴史でもある(福島、徳田前掲論文同書一三七頁以下参照)。明治一一年太政官布告第一七号郡区町村編成法等によつて、町村会における代議員制を導入しておきながら、明治政府がその後十数年後明治二八年島寄合、村寄合規約を認可する上でもあえて村民惣代としたのは、新島の村民間の結合で共同体的結合がなお優越していること、代議制が適していない事実を承認したからにほかならない。

また、ここに島寄合が規定されているが、近代的自治制と無縁である。

即ち、新島において新島本村あるいは若郷村はのちに島嶼町村制下の村となり、明治時代においても、その前身として近代的自治体である抽象的公法人が成立していたか否か問題する余地はあるが、新島という行政区域はこの意味では存在していないことは、明白である。

これは、封建的権利関係を前提にして同一の地役人の支配のもとにおかれた村と村との協議を各村の惣代がおこなうものであることは、明白であり、これと併んで規定されている村寄合もまた同様の性格であつたことを物語るものである。

(六) 「徳川時代に於て村は、一の課税団体を形作つて居た。当時の徴税法によると、幕府なり領主なり地頭なり徴税権者は、納税義務者たる各村民に対して、直接に課税するのではない。自己の所領に属する各村に対して課税し、村は其負担額を更に村内の納税義務者に割賦して之を取立て、然る後、村の租税として村の名に於て、之を徴税権者に納付するのが租税収納の原則である」(中田前掲書九六三頁)。

維新後においても「地租改正」の終了前には、現物貢租は旧制のまま村に課せられたので、割附免状は昔のままの形式で村あてにきて村は連帯してこれを負担した」(福島、徳田前掲論文同書一三五頁、中田前掲書一〇一〇頁参照)。

新島では地租改正は行われなかつたのでこのような徴税がのちまでもおこなわれた。一審証人の市川仙松証人は大正末に村役場に入つたのであるが、新島では「前は地租をとつたことはない」と証言し、本村分いくらといつた一括した徴税令書税務署からくると村の役場ではその地租分として、一括して税務署に先に納めてしまい、あとから村民に地租いくらといつてとつたといつている。

また、一審前田長八証人はこの問題について「地租は地租条例末施行ですから、各人に国は地租を課せておりません。したがいまして、島全体に何ほど、三十三円三十三銭というものをかけてきたわけであります。そこで村としては、それを各人にそれは前からのやはり旧慣によつたのでしようが、適当に割り振つて徴収したようであります。けれども国としては一村に課せてきております。」と証言している。これらは、まさに幕藩時代そのままの貢租賦課であり、同証人はこれは「江戸時代からのその一七貫何ぼが一七円というような数字に置き換えられて、そしてきておるものと解釈しております」ように、新島には、制度上も封建遺制が永く残つており、またそれに相応する社会的実体があつたことを示すものである。

(七) 「維新後に於ても村の組織は、或る年代までは徳川時代と大差無く大体に於ては旧態そのままを保持して居たのであるが、大凡明治六七年の交から、之に関して重要なる変化が生じてきた。」(中田前掲書一〇八八頁)が、これは前記諸布告が施行し、実行された一般の地域のことであるが、それにもかかわらず「明治初期の大審院民事判決録所収の訴訟記録」等に拠れば「維新後の村も亦徳川時代の村と同様に、複多性が勝を占めて居る所の、単一総合体である」(中田前掲書一一〇〇頁)。そして明治二一年法律第一号町村制施行前の町村は実在的総合人であつた(中田前掲書一一〇二頁)。

新島についていえば、明治一一年太政官布告第一七号郡区町村編成法のように施行せられなかつたことが明白である法令もあり、法的には施行されたことになつていても、現実に実行されなかつた法令もあつたろうが、町村制によつて抽象的公法人となる行政単位としての村の側面の発達分離の傾向は、これら諸法令が施行され、実行された一般の地域にくらべて甚だ遅れていたことはすでに見てきた事実によつてあきらかである。明治二一年町村制施行を前にした一般の地域の村でさえも実在的総合人であつたのであるから、明治一九年当時の新島本村が幕藩制の村に極めて近く実在的総合人であつたことは疑いがなく、名主、年寄、村民総代等がその代表として性質をもつていたことは明白である。

二審判決四三丁が「下渡された本件山林等を含む山林原野は、行政村たる新島本村の執行機関である名主によつて管理され、昭和二八年五月二一日村寄合規約が施行されてから、その管理は村寄合の議決事項とされ」としているところからすると、二審裁判所は、明治一九年下渡当時に、村民総体から分離した行政が成立していたと判断しているのである。

したがつて、本件山林の下渡は「当時法人化の発展途上にあつた、いうならば、権力能力なき社団としての新島本村に対してなされたものであつて、その後新島本村が行政村として法人格を取得すると同時に右山林原野の所有権は同村に帰属するに至つた」(二審判決六八丁)という結論になるのである。

しかし、すでにみてきたとおり、新島本村が実在的総合人として幕藩制下でも近代法上の権利能力に相当する権利主体としての地位を認められていたことは疑いない。

中田薫の論文「徳川時代に於ける村の人格」(前掲書九六三頁乃至九九〇頁)はあげてこの問題の解明にあてられているのであるが、この村の法的人格が認められていたからこそ、旧幕時代の村持地に対し、明治政府は、明治五年大蔵省第百二十六号地券渡方規則第三四条、同第三五条、明治六年太政官第二百七十二号地租改正施行規則第六則等により、之を村の公有地と名づけて、維新後間もない当時の村にそれら土地の所有権の証明である地券を交付しているのである(同書九七二頁以下)。これらの法令が定めた措置は、幕藩制下の村の人格とその村持地が、近代法の所有権に相当する権利であることを承認していることを示すものであり、また当時の村についても権利能力を認めていたことは明白である。

問題となるのは、実在的総合人であつた旧幕時代の村の一部をなしていた行政単位としての側面が維新の改革にともなつて、旧村から分離をはじめ、抽象的公法人としての独立の過程をどれほど進んだかであつて、村全体の法人化のごときは問題にならないのであり、それは幕政下からして法人なのである。町村制施行によつて確立する行政村はその到達点であり、いうまでもなく抽象的公法人であり、それは社団性とは相容れない存在である。権利能力なき社団として認められるか否かは、旧村から行政単位としての側面が分離するにつれて、実在的総合人を構成していた村の一部分である生活共同体としての側面が、漸くそれが後の部落として別個の社会的結合体となりつつあることに対してのことであり、それがいついかなるときにその存在を法的に確認し、権利の主体として承認するかの問題である。

二審判決は、引用した判示が示すようにこの法人化の過程を混同し、誤解しており、法制についても、前記地券交付についての法令の解釈を誤つている。

三、「共有」についての解釈の誤り

本件山林等が、明治一九年に「一島又ハ一村の共有」として東京府から新島本村に対して下渡されたこと自体については異見がないが、この当時の村の性格と「共有」の意義如何が、一審判決と二審判決との結論の相違の分岐点をなしている。

村の性格について二審判決の誤りは前述のとおりであるが、「共有」の意義についても二審判決は法令解釈の誤り及び判例違背をおかしている。

(一) 二審判決は四〇丁は、明治九年一〇月一七日太政官布告第一三〇号各区町村金穀公借共有物取扱土木起功規則第二条、第四条、明治二〇年一一月内務省訓令第四七号、明治二一年四月一七日法律第一号町村制第八二条をあげ、そこで使用されている「共有」の意義は「いずれも町村の所有を意味するものと解される」としている。抽象的公法人として確立された町村制実施後の村と実在的総合人であつたそれ以前の村とは性格を異にすることは前記のとおりであり、この判示部分だけでは言わんとするところが明瞭ではなく、法解釈の体をなしていないが、二審判決の結論から考えると、この判示部分は、今日の町村が、その財産を所有していると同じ意味内容で、当時も町村の所有であつたという判断になる。そこで、これら法規に即して二審判決の誤りを明らかにしていくことにする。

(二) 明治九年太政官布告第一三〇号各区町村金穀公借共有物取扱土木起功「規則を制定する直接の動機は元老院会議における内閣委員の説明によれば、当時各地で『区町村内ノ公借トシテ金穀ヲ借入レ動モスレハ区戸長擅私濫用シ又タ土木ノ起功モ共有物ノ売買モ其区町村内ノ人民ニ協議セス区戸長ノ独決専断ニテ挙行スル等ノ弊アリ』このため区戸長と人民との間に『往々粉議ヲ起シ訟廷ヲ煩スニ至』つたからである」(徳田良治、論文「わが国における町村令の起源、明治九年布告一三〇号『金穀公借共有物取扱土木起功規則』について――」(明治権力の法的構造」、(御茶の水書房昭和三四年所収、二六一頁)。

これら区戸長の専断を防止するためにその第三条には「凡ソ町村ニ於テ金穀ヲ公借シ若クハ共有ノ地所建物ヲ売買スル時ハ正副戸長並ニ其町村内不動産所有者ノ者六分以上之ニ連印スルヲ要スヘシ。但シ右不動産所有者ヨリ其総代ヲ選ンテ之カ代理タラシムルハ其都合ニ任スヘシ」として、その第四条は不動産所有者の連印がないものは、区戸長の私借、私工事とみなされ、「其正副区戸長ノミニテ共有ノ地所建物等ヲ売買シタル者ハ総テ売買ノ効ヲ有セス」とした。

戸長は、明治四年四月太政官布告第一七〇号戸籍法による戸籍を取扱う官吏としておかれたが、明治五年四月太政官布告第一一七号により「荘屋名主年寄等総テ相廃止戸長副戸長ト改称シ是マテ取扱来候事務ハ勿論土地人民ニ関係ノ事件ハ一切為取扱候様可致事」となり、戸籍事務以外の村方事務をとるようになつた。

右の戸籍法はその地域の単位として区をおりたが、明治五年一〇月大蔵省布達第一六四号は「……土地ノ便宜ニ因リ一区・二区長一人小区二副区長等差置候儀ハ不苦……」としたが「実際各地方で行われた所をみるに、土地により区であり、その後しばしば改正されるが、大体においては、府県の下に数個の大区をおき、大区は更に、数小区を、小区は数町村を包括するものとし、そして大区に区長を小区に戸長をおいた。また町村には戸長の部下として副戸長、用掛、組惣代等の名称の吏員を設けた。」このような措置の結果、区と町村の範囲が一致しないこと、戸長の官選化、他の土地の出身者が戸長に任ぜられる等のことにより、戸長と村民間の粉争が生じ布告第一三〇号が発出されたのである。

この規則第二条による村内の不動産所有者又はその総代の六〇パーセント以上の連印は単に形式的要件であるけれども、それのみで共有物の処分等は有効であるのではなく、実体として、それぞれ全員の同意が必要であつたのである(中田前掲書一〇九二頁)。

明治一二年八月二八日大審院判決山論一件(明治一二年七月乃至八月大審院判決録一七四頁)が、「一村共有物ニ就テハ一村ノ協議ヲ遂ケ且ツ其委任ヲ受クルヲ要ス」といい、また明治一五年三月一七日大審院判決、民有山林専擅保護規則取消差拒一件、(明治一五年三月大審院判決録五九頁)が「仮令既ニ調印セシモノト雖モ不同意者アルニ於テハ尚其ノ承諾ヲ取消サルヲ得サルヘシ」とのべているのは、このことをさしているのである。「一村ノ協議」は村内の不動産所有者の場合は村民の寄合によるし、総代による場合は総代会によるが、前者の場合は勿論後者についても「元老院会議における内閣委員の説明によれば、総代の議決は『全員一致』を必要とし『一人ニテモ肯セサル者アル時ハ之レヲ行フコトヲ得ス』とされた」(徳田前掲論文、同書三四頁)。

(三) 明治一一年七月二二日に太政官布告第一七号郡区町村編成法が、施行されたことは前述のとおりであるが、これには町村寄合のことも町村会のことにもふれていない。

しかし、同日付の同法の施行心得ともみるべき太政官達無号郡区町村編制府県会規則、地方税規則施行順序書第四条によつて町村会の開設が認められた。

同年一一月一一日公布の内務省乙第四四号達は、一町村限りの土木起功共有物の取扱を町村会で取扱うことを認めると共に、町村会が共有物に関する規約を定めることができる旨を規定したので、町村会が設けられている地域では、土木起功共有物に関する議決権は町村寄合から町村会に移された。こえて明治一二年六月、太政官布告第二二号は明治九年布告第一三〇号の事項は一切町村会に移してしまつた。町村会の設置は初め任意的なものであつたから、それが設置されていない地域ではなお町村寄合が存在し、機能していたが、明治一三年四月八日太政官第一八号布告、区町村会法は町村会の開設を強制するにいたつた(中田前掲書一〇九三、一〇九四頁)。

この町村会は公選により選出された議員からなり、多数決制が採用され、町村会の議決が戸長により執行せられ、議員はこれに干与すべからずということになつた(徳田良治論文「明治初年の町村会の発達」前掲明治権力の法的構造所収、同書五五乃至六〇頁)。この意味で町村会は近代的地方自治体の代議制に近ずいたのであるが、それにもかかわらず「此年代の町村会は、其の決議が全町村人民の協議に代る所の、彼等の共同意思であると看做されて居たことに於て、尚其前身たる町村寄合の残影を留めて居るものである。」(中田前掲書一〇九四頁)。

明治一三年九月二七日大審院判決鉱山開業拒障一件(明治一三年七月至九月判決録第二四五頁)は、議員が、その村の人民に関係する事件についてなした議決が総人民の議決と同一である旨を判示し、これを肯定している。このことは、議員とその集合体である、町村会は、村民総体からの分離をなお了つていず、その共同意思を全く離れさることはできないこと、したがつて当時の町村がなお実在的総合人にとどまつていたことを示すものである。

右の判決は「町村会を以て町村惣代会議と同視するものである。

されば、其名は町村会とはいえ、複多的総体の組合員総会に等しき町村民寄と基本質に於て相去る遠かざるものである」(中田前掲書一〇九七頁)。

(四) しかし、町村会が制定され、それが、町村共有物について議決しうる等、その権限が強まるようになるとそれと村民全体の利害との間の矛盾はさけがたくなるので、この調節にあたつて、明治一三年区町村会法第一条は「区町村会ハ其町村公共ニ関スル事件ヲ議定ス」と定め、その権限を限定し「公共ニ関セザル」ものは議事から排除すべきものである旨を示した。「公共ニ関スル事件」は、区町村会規則の改廃、請願小学校の設置、勧業、水利、衛生等がそれであるとされた。

しかし、区町村会法は「公共ノ事件」に如何なる具体的内容を与えるかを各町村の自由にまかした結果、例えば、秣場、山林等の町村共有財産について町村会に付議した町村もあり、しなかつた町村も出てきた。このような経過において、「如何なる事項が町村会に付議さるべきかが、その町村の実質的基準よりむしろ形式的に町村会のもつ性質によつて規定される傾向」を生じ、例えば、金穀公借、売買の証書に戸長名、町村会議決議を明記してあるか否かによつて判定しうる考えも生じた。

この結果、「町村公共の事件は、町村会の議を経て戸長の執行するものとに分かれ、形式上両者その性質を異にするものとなつたのである。そして、これを町村の財産についていうならば、町村の公共の事件に属する共有物においても、町村会の議定にかかるものと人民の協議に任かされるものとに分かれ、前者が近代的代議制度たる町村会をその中心機関にもつ町村の専有財産となり、後者はこれと全くその拠つてたつ原理を異にする町村人民集団の所有する財産となつた。」(徳田、明治初年の町村会の発達、同書七三頁乃至八一頁)しかし、「ここで断つておかねばならないのは、町村の共有物(例えば村持地)において先づ公共の事件に属すると考えられるものとしからざるものとが区別させられたのであることが、第一の点であり」……次にその公共の事件に属する共有物において、町村会に付議されるものと人民の協議に付せられたものが分かれたのであること第二の点であつて、名義上一村共有物(村持の名受)とせられたものでも数種の段階があつたのである。」(徳田同論文、同書八四頁)。

(五) 明治一七年の区町村令法改正の第一条は、区町村会の議決事項を「区長村費ヲ以テ支弁スヘキ事件及其経費ノ支出徴収方法」とし、明治一三年町村会法における「公共ニ関スル件」を更に限定した。その内容として「一町共有に係ル秣場若クハ山林」に町村会の評決に付すべきか否かについての明治一八年一二月二二日青森県伺に対して、翌一九年一月一六日内務省指令は「『従来町村費ヲ以テ支弁セシモノ』はこれを町村会に付議するが、しからざるもの、すなわち従来町村費を以て支弁せず人民の協議に任かされてきたものは町村会の議に付せざるものとした。」明治一七年一二月一八日静岡県伺に対する翌一八年二月八日の内務省指令も同様である(徳田、明治初年の町村会の発達同書九〇頁)。

二審判決四〇丁に引用されている明治二〇年一一月五日内務省訓令四七号は「区町村公費ノ経済ニ属スヘキ共有物ニ関スル事件ハ渾テ区町村会ニ於テ評決セシムヘシ、但シ本文ニ牴触スル従前ノ指令訓令ハ取消ス」となつているが、これは明治一七年の区町村会法の改正により区町村会の議決が区町村費に属する事件に限られたために、公共の経済に属すべき共有物と目されながら、区町村会に付議されなかつたものを再び区町村会の議決事項に取入れる趣旨であつた。しかし、この訓令の「区町村公共ノ経済ニ属スヘキ共有物ニ関スル事件」の中には「単ニ一町村人民ノ申合ニヨリ成立ツ共有物」は包含されていなかつたことは、明治二〇年一二月二六日付兵庫県伺に対する内務省指令、または明治二一年一月二八日静岡県榛原部長伺に対する同県第一部長照会にあきらかである(徳田同論文、同書一〇三頁以下)。

これを秣場、山林等についてどのような基準で選択がおこなわれたかについてみると、当時「村持」と称された地所はほとんど公共の経済に属せざるものとされたのである。

すなわち「明治二一年四月九日静岡県湯ヶ野村外五ヵ町村戸長伺に対する同県第一部長照会には『秣場ヲ売却スルハ村内ノ肥料ニ供スル秣ヲ苅来リシ共有地ヲ売却スヘ迄ノ儀ニテ関係スル所ハ二ヶ村一般ニアリトモ公共ノ経済ニ属スル物件ニアラス』と述べ、また同年八月七日同県富士郡長照会に対し、同県第一部長は江尻村外六ヶ村共有の秣場及山林は『土地使用ノ性質ヨリ考フルトキハ公共ノ物件ニアラス……乃チ各自ノ肥料ヲ得ル為ノ秣場又ハ木材ヲ産出シテ各自の所得トナス山林ノ如キハ共有物ナル場合ト雖モ達七六号(内務省訓令四七号の内容を達したもの)ノ範囲外ナリ』と回答し、更に同年八月二二日同県庵原郡大内村外一〇ヶ村戸長伺に対する同県指令に共有の山林及び畑反別と『密柑茶栽培ノ為メ毎戸ヘ分割売買譲渡』の如きは人民の協議に任すべきものにして公共の経済に属せざるものとする」(徳田同論文、同書一〇六頁)のである。

(六) 以上のべてきたとおり、維新以来、明治二一年町村制の実施にいたるまでに使用されてきた、町村共有の意義は、その権利主体である町村が町村会の発達を中心とする変化によつて多小の内容をかえてきたのであるが、実在的総合人としての町村の所有であり、明治三二年民法施行後の法概念に即していえば、その総有にかかるものであつた。

明治九年太政官布告第一三〇号が全面的に適用されていた当時、町村会が設置された地域であつて、共有物の処分等を議定せしめた場合でさえも、その議員は人民惣代の性格をもち、したがつて抽象的公法人としての行政村の分離独立は弱く、この町村に実在的総合人性は濃厚にのこされ、町村制の実施を目前にして町村会の権限と性格が明確になりつつあつた明治二〇年一一月内務省訓令第四七号当時においても、町村の共有物は、町村会の権限にある公共有物を人民協議にかかる私共有物の境界は流動物であつたのである。このような状態であつたからこそ、前記明治一五年六月一〇日大審院判決、共有地差縺一件(明治一五年六月至七月判決録一九九頁)は、一村共有は一村人民全部の共有であることを明言しているのである(中田前掲書一〇三五頁)。

二審判決が右の太政官布告第一三〇号の「共有」を町村制実施後の町村の所有と同一と解したことは、明白に誤つており、また右の訓令第四七号当時の「共有」について町村の公共有と人民全体の私共有との区別する傾向が強まつたとしても、これらを町村制後の町村の所有と同一視することは、右の私共有を全く看過した点において法令の誤解といわなければならない。

二審判決の当時の村共有についての右の見解は、これを一村人民の共有とし、その処分にはその全体の協議と同意を必要とするという右に引用した三つの大審院判例(明治一二年八月二八日、明治一五年三月一七日、明治二五年六月一〇日)にも違背するものである。

なお、二審判決の右判示部分が明治二一年町村制第八二条に「共有」とあるよう引用し、その見解の裏付にしているが、この八二条には、「凡町村財産ハ全町村ノ為メニ之ヲ管理シ及共用スルモノトス但、特ニ民法上ノ権利ヲ有スル者アルトキハ比限ニ在ラス」<証拠略>とあるが、「共有」とはないので論外である。

四、明治一九年当時の新島本村の本件山林等の共有についての誤り

<証拠略>は本件山林が明治一六年四月二六日に新島本村年寄、名主連名の東京府知事に「官有地御下附願」という書面が提出され、明治一九年九月二四日に新島本村に「一島又ハ一村ノ共有」として下げ渡されたものであることを示している。二審判決の当時の法制上の町村共有についての解釈の誤り及び判例の違背については右三で明らかにしたところであるが、これは明治政府の地方自治についての諸改革法令が順次施行され、実施された一般地域について考察した結果であるが、僻遠な地としてこれら諸法令が実施されなかつた特別地域である新島についていえば二審判決の「共有」の解釈の誤りは一層明白である。

(一) 明治九年太政官布告第一三〇号が新島において施行させられたか否かは明らかでないがこれが施行せられていないとすると新島における村共有物についての措置は幕政以来の村寄合による村民協議によるほかないことになり、一村人民全部の共有との性質は他地域にくらべて一層強いことになる。

(二) 明治九年布告第一三〇号が新島において施行されたとしても、新島においては、明治一一年七月二二日太政官布告第一七〇号郡区町村編成法は施行されなかつたと思われる。同法と同日に出された太政官無号達同法施行順序書では町村会の設置を公認し、さらに明治一三年四月八日太政官布告第一八号区町村会法は、布告第一七号施行区域に町村会の設置を強制していること前記のとおりであるが、それにもかかわらず新島には村会は設置されていないことは、前記の郡の設置がないこと、郡長の任命がないことと併せて、布告第一七〇号の施行を否定するものである。以上の事実の上にたてば、明治九年布告第一三〇号が施行されていたとしても、その村共有物は同布告による村民の総寄合、もしくは惣代による協議にまかせられていたことになり、明治一一年布告第一七〇号、あるいは明治一三年布告第一八号によつて町村会をもつていた地域よりも、その村共有物についての一村人民共有の性質は強かつたことは明らかである。したがつて一村共有物の公共有と私共有とにわかれる傾向もなお弱かつたことになる。

(三) 東京府知事は明治一四年四月一八日、乙第三九号として伊豆七島々吏職制を達した。その内容については前記のとおり旧幕時代そのままの地役人、名主、年寄をおき、村民惣代による村寄合に協議方法をとるなど幕藩制下の村を多く出るものではなかつた。ことに島寄合のごときは幕藩制下の村落法からは理解できるが、明治の地方制度からは説明できないものである。これは旧幕時代の村を明治法制下に公認するにとどまるものである。それが政府の布告でなく地方官の達である形式にもみられる。正規の法改革であれば布告でなされるはずであり、少くともこの達の根拠法令となるべき布告が存在するであろう。

(四) 明治九年布告第一三〇号の事項は、明治一二年六月太政官布告第二二号により村寄合から町村会にうつされたのであるが、新島では村会がなかつたので、布告第一三〇号が施行されていたとすれば村共有物については右の(二)の村寄合によつてなされていたのであろう。

布告第一三〇号は明治一七年区町村会法の改正によつて区町村会法の適用のない北海道その他の地域をのぞいて町村会未開設地の地においても廃絶されることになるのであるが(徳田前掲論文、同書三九頁、九四頁)、新島には区町村会法の適用がなかつたのであるから、なお有効に存続していたことになる。したがつて村共有物の処分は前記二、(二)のとおり人民の協議によるものであり、その同意が必要であつた。

(五) <証拠略>の下渡願は年寄、名主の連命でなされているが、これに対する東京府知事者の不渡許可状「郷向キニ其島人民惣代等ヨリ願出タル各官有地下渡シ儀今般許可致候」となつており、名主、年寄を人民惣代ととらえている。明治一九年、即ち明治一七年の区町村会の改正後においては、東京都の他の地域では町村の行政単位としての側面の抽象的法人化の過程が進み、戸長、町村会議員は村民との分離の傾向が強くなり、村民の惣代とみられなくなつてきていたことは前述のとおりである。その時において、東京府が新島の名主、年寄をあえて「人民惣代等」と位置づけたことは新島においては、名主、年寄は行政村の単なる理事者ではなく、村民全体の総代であるという認識があつたからである。この認識は一方、新島本村が旧幕時代の村をいくばくも出ず、行政単位としての側面の抽象的公法人化も進んでいなかつたこと、即ち、依然として実在的総合人であつて、村方後人と村民がなお一体であつたと考えていたことになる。このような村に対する共有としての下渡は、当然一村人民の共有としての下渡でなければならない。

(六) <証拠略>で特に注意すべきもう一つの字句は「一島の共有」ということである。「一島」が維持により改革されつつあつた法令上位置づけることができないものであつたことは前記のとおりであり、如何なる意味においても島を抽象的公法人ということができない。「一島共有」の場所は、阿土(アツチ)山である。ここは<証拠略>では新島本村に下渡と表示されているが、明治三一年の新島若郷村から地役人に差出された共有地租明細書<証拠略>によればこの地の貢租を同村が半額負担していること、及びこれを両村民が共同利用していた形態から民法施行後の法概念によつて理解にすれば、本村、若郷両村民の総手的共有であつた(中田、前掲書七二一頁)。二審判決のごとく当時の新島本村、及び若郷村が抽象的公法人化しており、その所有が近代法的であつたというならば、このような形式の下渡がなされるはずがない。

(七) 二審判決は、この下渡及び共有についての上告人の主張を誤解もしくは曲解して、上告人の主張していないことを主張しているとしてそれを排斥しているのである。上告人は一審以来、本件山林等の下渡は、当時幕政時代の村と本質的に変らない村、即ちその村は行政単位としての側面と村民の生活協同体としての側面から構成され、それが混然一体となつていた実在的総合人であり、明治の改革にもかかわらず行政単位としての側面の分離=抽象的公法人化があまりすすんでいなかつた村に共有として下渡されたものであり、従つてその共有は実在的総合人としての村の所有であり即ち民法施行後の法概念にしたがつて理解すればその総有であつたと主張しているのである。(例えば<主張略>)。

この点について、二審判決三四丁は「第一審原告らは、右下渡は実在的総合人としての新島本村に対しなされたものであるから、本件山林は当時の新島本村住民の総有となり、その結果新島本村住民に共有の性質を有する入会権が生じたと主張し、第一審被告らは右下渡は当時法人化の発展途上にあつた新島本村に対しなされたもので、新島本村が行政村としての実体を確立するに伴い本件山林の所有権は同村に帰属するにいたつた旨抗争する」としている。ここに記され一審被告の主張は論理的に首肯しえないものが、それはしばらくおくとして、上告人らの主張は、右のとおり、本件山林は実在的総合人としての村に下渡されたのであるから、その共有=総有物となつたといつているのであり、住民のみの総有になつたとは主張していないのである。村民も総有主体の一部であり、旧幕以来の入会権の行使を続けてきていたのであるから、民法施行後の法概念にしたがえば共有の性質を有する入会権が認められるのは当然であるが、住民のみの総有だからそれが生じたという二審判決の主張の要約は誤解もしくは曲解である。二審判決は主張せざるものに対して判断し、主張に対して判断をしていないという手続違背をおかしている。この点は本件争点の根幹でありその出発点であるから判決に影響を及ぼすことはあきらかである。

(八) 以上のとおり新島においては、本件山林等の下渡当時においては、明治政府による地方自治制の改革のための法令は適用、施行されないものがあり、かえつて幕政時代の制度が残される特別の措置がとられているが、これは地租改正が実施されていない事実に即応するものである。この結果、新島本村の実在的総合人性は、地方自治制の制度改革のための諸法令が実施された一般の地域に比して、制度的にも実態の上でもはるかに強かつたのである。右三でのべた一村共有物についての「公共有」と「私共有」にわかれる傾向についても、新島については、名主、年寄を人民惣代とみる東京府の右見解からしてみられないのであるから、この「共有」を抽象的公法人である新島本村の所有であると断じる二審判決の誤りは、明治九年太政官布告第一三〇号の「共有」の法解釈の誤りの上に、これを新島本村に適用するにあたつて一層大きな誤りをしているといわざるをえない。

第三入会権の存在についての誤り

この二審判決は本件山林等の下渡当時の新島本村の性格及びその共有について誤つたために、その後も一貫して入会権の存在を否定することになつた。この誤認は当然に、その後の新島の実態と矛盾することになるので、二審判決はそれらについての判断においていたるところで採証法則の違反及び理由の齟齬ないし、不備の誤りをおかしている。

一、新島本村部落の存在

(一) 旧幕時代の村は、行政単位としての村と生活共同体としての村と一体であり、地域も重さなつているのであるから村方役人も村民も、この集団とムラというのみであつて、部落として区別する必要もないし、事実いつていない。明治の地方自治体改革のなかでこれに財政的にたえるために村の合併がおこなわれたことは周知のとおりであるが、この事態の中で一村の範囲の中に数個の旧村の地域がふくまれることになつた。旧村民の結合=生活共同体は行政面の改革だけでなくなるわけはないから、旧村民は自らの結合及びその生活範囲を部落として意識するようになるのである。したがつて明治の一村が幕政下の一村の範囲にとどまるならば、部落という意識はおこらず、村民は依然としてムラとよぶだけである。明治二一年町村政の実施によつて抽象的公法人である町村が、法制として確立すると、行政村と行政村から分離された生活共同体としての村民の結合体は、制度の運用として区別する必要が生じ、これを部落と称するようになる。

しかし一村一部落ある場合には、これは観念としての区別にとどまるところが多く、特に意識しない限り村も部落も矢張りムラである。したがつて村と部落は観念上も実際上も混合が生じるのである。新島の実態は、まさにこのとおりであつて、大正一二年の島嶼町村制施行前は勿論、その後もこのような事態がつづいたのである。

(二) 二審判決三四丁は、「町村制の施行に伴い、従前の村がそのまま新しい行政村に移行したのかあるいは、事実上の問題であつて必ずしも町村制の施行によつて従前の村が行政村と部落共同体に分離するという原則が存在するものはない」といつている。

町村制の施行によつて行政村と生活共同体である部落が分離するのは法制度の問題であつて事実上の問題でないことは前記のとおりである。但し社会経済上の変化によつてその住民間の生活共同体としての結合が失われてしまつている場合には、部落が存在しないことになることはいうまでもない。この部落は、入会団体として入会権行使の主体として法認されることがあることはいうまでもないが、入会をしていない部落もあり、部落民の一部が入会団体を構成していることもある。「部落共同体」即ち入会団体とする二審判決の右判示は、部落の実態についての認識について経験則の違背があり、また法政としての部落の解釈を誤つている。

(三) 二審判決三七丁は椿の実の採取、共同基地の整備消防、海難、信仰、葬祭互助組織、区の組織の存在を認め、「これらの組織は、いうならば地域住民の互助組織で」あるとしているが、「地域住民の互助組織」がまさに生活共同体である部落であり、この判示部分は新島本村における部落の存在を認めたものである。つづいて「これら組織の存在は、直ちに入会団体としての部落共同体の存在を裏付けるものではない」(三八丁)という部落のあることは「直ちに入会団体としての部落共同体の存在」が認められることにならないのは前述のとおりであるが、その前提条件であるから、その「存在を裏付ける」一条件であり、右判示部分は矛盾した表現である。これは右の部落共同体即入会団体とする右の誤りに由来するものである。

(四) 二審判決三七丁は「本件山林の管理をはじめ、下渡された山林原野の薪や椿の実の採取、抗火石の採掘等はすべて法人化の発展途上にあつた行政村としての新島本村の管理の下にあつたことが認められ、第一審原告らの主張のように、部落共同体が存在し、本件下渡が右共同体になされたものということはできない」という。しかし二審判決三六丁では「新島本村は島嶼町村制の施行に伴い同制度の村となつたところ、他の町村と合併することなく、従前の村がそのまま同制度下の行政村となつたのであり、その間団体として実質上何ら変異はなく、村民の生活共同体としての連続性に欠けるところはない」としているごとく大正一二年当時でも生活共同体としての村の存在を認めているのであるから、明治一九年にそれが存在していたことはいうまでもない。これは経験則である。したがつて部落の存在を否定する右三七丁の判示部分は経験則違反か、あるいはこれと三六丁の判示部分に理由の齟齬がある。

上告人は、明治一九年当時部落が行政村が分離して存在したなどと主張していないことは前述のとおりであるが、したがつて村をはなれた入会団体たる部落が存在し、下渡がなされなどというわけがない。この下渡は実在的総合人であつた新島本村になされたものであるから、後に抽象的公法人となる行政村の側面が、この管理にかかわることはある意味で当然であり、だからといつて入会権行使及び村民のその地盤に対する共有権の主張を否認する理由にはならないのである。

右判示部分も認めた本件山林等の村民の利用はまさに入会権の行使そのもの、しかもその古典的規制のもとでおこなわれた。この証拠は多くあるが<証拠略>をあげるだけでも十分である。この部分についても二審判決は採証法則違反をおかしている。

(五) 明治九年太政官布告第一三〇号は、明治二一年町村制第一三条によつて町村制が施行された地域においては廃止されたが町村制を施行せざる地方(北海道その他)においては右布告がなお有効に存続する」(徳田「明治初年の町村会の発達」前掲書九四頁)。新島に町村制が施行されざるその他の地方に入つていたのであるから、右布告は大正一二年一〇月一日の島嶼町村制の施行まで有効に存続していたのである。そしてその共有山林の管理は村寄合によつてなされていた。明治一九年当時の新島の寄合の実体がいかなるものであつたか、これを直接示す証拠はないが、旧幕時代の町村寄合が年貢の割付、町村入用の勘定、町村役人の選定、諸種の村極の設定、町村の訴訟また借金、用水の分配、秣場の管理、祭礼の打合等およそ町村の一切の重要事が協議されたことは一般に認められるところであるが、(中田前掲書一〇八三―八六頁、滝川政次郎「日本法制史」四四五頁)新島における当時の村寄合はなおこのような機能を営んでいたと推定される。

<証拠略>によれば明治二八年一一月に新島若郷村に村寄合規約が制定されたことになつているが、新島本村にもおそらくその頃同様なものができたのであろうことは、<証拠略>から推定できる。その頃までは幕政以来の旧慣に従つておこなつていたと考えられるのである。この規約が旧慣をどれだけ実際にかえたか疑問であるが、その条文自体において旧慣が濃厚に残つていたことは前記第二においてあきらかにしたとおりである。

<証拠略>に村寄合規約と島寄合規約が同時に制定され併記されているところからすると、この二つは同じ性格であつたのである。村寄合はとにかく島寄合は明治法制上に位置づけることができないものであり、幕藩制そのものであることは前記のとおりであるから、これと同質のものとされる村寄合もなお幕藩制のものと本質を異にするものではなかつた。なお、この村寄合は惣代制をとつているが、村の重大事項については、明治末年の石山事件にみるとおり村民の総寄合もひらかれたのである(一審市川仙松証言)。

(六) 新島においては地租改正はおこなわれなかつた<証拠略>。したがつて、地籍を確定するための公図の作成をされなければ、土地台帳法の適用からも除外され、現在ようやく国土調査法にもとずく土地調査がおこなわれている状態である(宮川源兵衛証言)。ここに新島の土地制度と権利関係の特異性の原因がある。明治三一年当時東京府から派遣されていた地役人田辺卓が「土地ハ恰モ内地ニ於ケル地租改正前ノ有様に異ナラス」<証拠略>といつた根拠であるのである。

地租改正がおこなわれなかつたということは、近代法的所有権の前提である一筆の土地の範囲が明確ではなく、領有と所持、さらに所持権の内容の分裂状態が整理確定されずにきているということ、即ち、封建法土地制度が維持されてきているということである。少くとも近代法的土地制度のなかに封建遺制が濃厚に残存しているということである。

<証拠略>は明治三二年六月に新島本村住民間でなされた土地丈量契約書である。それによると、その時まで天明五年につくられた小前反別銀盛帳によつて地租を上納してきたこと、その間に所有権が別人に移つても、もとの反別者帳記載者名義で納租してきたのは「数十年間本村ノ慣例」であるとし、それが土地の「公然ノ売買ヲ禁止シタルノ制度ナリシヲ以テナリ」とし、所有権が確定していないとしている。新島区裁判所は明治三二年から開設されておりその時から登記制度が施行されるという事態にそなえて、この丈量契約がおこなわれている。この契約者名をかぞえると三三〇名であり、<証拠略>による明治二七年の新島本村の世帯数四二八戸の約七六パーセントである。この三三〇という数は、古くから伝えられている新島の本村の本農家数であり、また<証拠略>の茅無尽大帳記載者数と一致している。

本農家または本戸は、新島本村部落の正規の構成員であり、その間の私的契約もしくは村極のかたちで土地調査がおこなわれていることは注目に値いする。しかも、その費用が、村費と個人負担であり、この調査の結果をもつて村及び村民間の権利関係の基礎とする合意は、まさに当時の新島本村が実在的総合人であつたことを示すものである。おそらくこの三三〇名は天明年間の小前反別銀盛帳に記載されている家の当代の戸主であり、この契約書がいうように新しい土地取得者ができているであろうけれども、古くからの家の戸主だけの合意によつて権利の確定公費の支出をはかるということは幕藩制下の村そのものではないだろうか。国の行政として地租改正をおこない、公権力によつて土地に関する権利を確定するのが、日本の他地域ですでにおこなわれており、その所有権者が地租を負担していたのであるが新島では、実際の土地所持ではなくて、幕藩制下の土地所持を示す小前反別銀盛帳の記載者が土地の貢租を負担しそれが慣習であるというのは、新島には当時近代法の基本が貫徹していなかつたことを証明するものである。ここにいう貢租は、厳密にいうと地租即ち土地所有権についての租税ではない。したがつて、前田長八、市川仙松両証人がいうとおり、新島本村の地租は、村が村民に割当て集めたものを一括して納入していたものである。一審被告は町村制実施当時は、他の町村でも村が納めていたというが、これは、町村が、国の収税機関として、その事務の一部を負担していたにとどまり、その前提として個々の土地についての所有権者が確定しその者と国との間に直接公法上の権利義務関係が存在、町村が国の事務として、町村民から国税をあつめていたにすぎない。したがつて、町村は課税団体ではないのである。新島本村と、他の町村との土地税の収納は類似しているようでも、その本質については明確な相異があつたのである。<証拠略>としてある明治二五年の村役場発行の地租領収書が四戸分を一括し隣保組長宛出されていることもその一端を示すものである。

当時の新島本村村民は、地租を負担する前提としての土地所有権の確定がなかつたので、厳密な意味の地租を納めていなかつた。周知のように、大正一四年の普通選挙に改正されるまでは、衆議院議員選挙は直接一定額の国税を負担する者のみが選挙人たりえた。営業者以外の者の国税といえば、地租が主要なものであつたから地租を負担しない新島本村民は、選挙人たりえなかつた。被上告人は<証拠略>をあげて新島本村民に、明治二五年当時衆議院選挙権があつた証明としているが、その文面の投票所をみると「荏原郡品川町荏原神社」内となつている。当時の輸送状況を考えれば投票にいくことは事実上殆んど不可能であろう。ということは、現実には選挙人資格をもつ者がいなかつたことを証明するのである。地租以外の所得税を納めている者があるという可能性も考慮して形式的に品川町長が通知していたことを示すものである。

(七) 本件山林等明治一九年下渡地についてその共有が総有であつたことについては一審判決もいうとおりであり、村民は<証拠略>が書証としてあげているとおり村民がその地租を「共有地地租」として負担していたのである。この事実は村政についての村当局者及び村民の考え方にあらわれているのである。<証拠略>は明治三二年度の本村財政に関する書類であるが、それによれば村寄合が、村費の収入予算として寄留人のみに対し「戸数割」のほかに特別の「村費割」を賦課しようと議決したが、地役人が東京府知事に請訓してとりやめさせたことを示している。この「村費割」を寄留人のみに賦課する「理由トシテハ本村人民ハ村有財産ヨリ生スルモノヲ以テ村費ヲ負担スルモ寄留人ハ其事ナシ以テ此村費ヲ負担セシムル所以ナリ」としている。

これは、村当局も村民もともに「村有財産」所有の主体として観念しており、村の正規の構成員でない寄留人は、この主体のうちに入つていないので、この「村有」財産からの収入が村財政に寄与していること、即ち本来の村民がこの分を出捐していることにかんがみてこの分だけ負担の軽い寄留人にも負担させるべきであるというのであろう。府当局側は一部の住民のみ課すのは平等を欠き不当で無効であるとしているが、これは、村行政当局が抽象的公法人と独立している町村制実施済の町村と新島を混同し、そのような村の村有財産であることを前提にしての見解であるならば妥当であろう。しかしこれは新島の法制を誤解している。

その当局はとにかくとして、当時の新島本村当局も村民も寄留者は、村民としての資格がないとし、新島本村を構成する者の範囲外にあると考えていたことを示すものであり、村を本農家を構成員とする実在的総合人としその「村有財産」については「村持」=「一村共有」即ち「村なる団体人の所有たると同時に、其内容が村民たる資格に伴つて村民各自に分属し、各自の特別個人権として表現する所の権利である」(中田同書一〇五五頁「明治初年に於ける村の人格」)として考えており、現実に取り扱つていたのである。これはとりもなおさず、「一村の『総有』」に外ならないのである(同書同頁)。

(八) 明治一九年下渡をうけた山林のうち、主要な部分は大正六年頃から分割作業がはじめられ大正一二年一〇月一日島嶼町村制が施行される前に村民間に割当てられた部分林がそれである。村民のうち本農家(本戸)約三四〇戸は宮塚山地域に一筆と向山地域に一筆と各二筆の割当をうけ、半戸(約三〇戸)は向山地域に一筆をうけた。<証拠略>によれば新島本村の世帯数は九二四であり、式根島に居住して実際本件山林等を実際利用できない約一五〇戸を除いて約四〇〇戸がこの割当から除外されている。これは寄留者もしくは本戸、半戸の家族でいわゆる「かまど」を別にしている隠居等の世帯がこれにあたるであろう。二審判決三〇丁から三一丁にかけての新島本村の戸口に関する判示は、向宮塚山に部分林を割当てられた本戸と、向山に部分林をもつ本戸を別の家と誤つている(例えば一審宮川松次郎、梅田仁、二審前田仁右衛門各証言)。

これは一審判決が正しいのである。二審判決は、戸口は明治末から昭和五年頃まで殆んど変らないとしながら、寄留者が大正一二年では三〇戸、昭和三五年では三三〇戸が寄留者であるとしている。大正一二年当時は本戸、半戸が七二〇戸で寄留者であつたのが、昭和三五年では本戸、半戸が三七〇戸で寄留者三三〇戸であることになる。総戸口が同じでありながら、地附の人が半減するというこのような構成の変動は少くとも離島で経験則上ありえないことである。右の誤りからこのようなありうべからざる認定がでてきたのである。

二審判決三六丁は「本戸、半戸とはこれを要するに新島本村に本籍を有する者を指称するものであることが明らかであ」るというがそれでは同じ本籍を有しながら一方が本戸であり、他方が半戸である区別はどこから生じるのであろうか。これは慣習にもとづく、社会的事実であり、古くから村民間で認められたものであるから、前田長八証言にあるとおり「記録の中にそれははつきりとつかみ取るということは非常に困難」であるが、村民間ではどこの家が本戸、半戸はわかつていることである。部分林分割前の薪の採取、において半戸は本戸の半数の束数が認められていたというように村民間では判然としており、その事実が部分林分割において半戸一筆、本戸二筆の割当となつているのである(一審梅田仁、宮川松次郎各証言)。

本戸は、新島本村で優越的地位をもつ構成員であり、半戸は劣位の村落構成員である。寄留者は行政村の住民ではあるが村落構成員ではなく隠居等の世帯は生活共同体としての村落の構成員としては本戸、半戸になりの家族の一部と考えられていたから、独立の構成員ではない。

部分林は、島嶼町村制実施前即ちなお実在的総合人であり新島本村である間に分割されたのであつて、これは抽象的公法人である村のその住民に対する貸付ではない。町村制八二条は、「凡町村有財産ハ全町村ノ為メニ之ヲ管理シ及共用スルモノトス」とあり、一部の住民にのみ利用させることを禁止している。分割当時の新島本村が行政村であつたとすれば本戸・半戸だけに部分林を割当てることはできない筈である。

(九) このような分割を可能にしたのは本件山林等が明治末から大正初めにおきた石山事件において新島本村「部落有」であることが確認されていたからである。当時の名主が外来の採石業者に右下渡地の一部について採石を許す契約をした<証拠略>結果、これが村民の共有財産に対する侵害であるとして村民の総寄合がもたれ、本戸・半戸の大部分が原告となつて採石業者等を相手にして共有権確認、採掘禁止の訴訟がおこされ、原告は個人的共有を主張し、被告側は村有と争つた(<証拠略>)。その結果が、<証拠略>であり、そこでは契約者である名主は「部落代表者として右土地は部落所有地と確認された。この和解においては、双方弁護士がついていたのであるから「個人共有」「村有」「部落有」の差違に明確に意識されている。このことによつて当時の新島本村名主は部落代表たる性格を有し、したがつて新島本村はなお実在的総合人であるが、公法人化が進み、その「一村共有」物について公共有と私共有について分離する傾向があつたとすれば本件山林等は、村の生活共同体としての側面即ち部落において所有されていることが確認されているのである。

当時の新島では法制上の部落はまだ独立していないが、他地域の部落に相当する性質を村がもつていることの確認でもある。その石山事件のなかで名主並びに村民惣代が引責辞職していること<証拠略>は、「総代は一町村を代表して官庁、他町村または他町村人民と交渉をなす場合、常に町村人民の意思にしたがつて行動し、その承諾を得ずして勝手に事を断決するを得ず、しかして町村人民は総代に対して絶大な権威を以て鑑み、いやしくも総代に不正または不都合あるときは直ちにこれを解任して他の総代を選ぶことを得」(徳田、わが国における町村会の起源、前提書三一頁)という実在的総合人である村の方法による運営がなされたことを示している。これは新島が「未だ旧幕時代そのままの古い制度である」(<証拠略>)であるからこのようなことがおこつたのである。なお同報が非戸主は村寄合の村民総代にえらばれないことを報じていることは、新島本村の寄合が近代的自治制の代議機関ではなく、家を単位とする村民の協議体であつたことを示している。明治二八年の村寄合規則<証拠略>第二条は村民惣代は戸主に限られると規定していないが、大正九年における村寄合の実態は右のとおりであつた。

このような状態における村の契約とそれをめぐる裁判の和解文書の「部落有」たることと、名主が部落代表者として契約したものであることの確認を曲解して新島本村の実在的総合人性とその所有を否認し抽象的公法人たる村の契約とした二審判決の判示(六六丁)は法の適用を誤り、経験則に反していることはあきらかである。

第四、島嶼町村制の施行と入会権

一、新島本村は、大正一二年一〇月一日島嶼町村制が施行され実在的総合人である旧村は再編され抽象的公法人である被上告人と生活共同体である新島本村部落となつた。

しかし、これは法制上の問題であり、二審判決三六丁も「その間団体として実質上何ら変異はなく、村民の生活共同体としての連続性に欠けるところはない」といつているとおりである。二審判決は、つづけてそれであるから「従前の新島本村の所有する財産がすべて新制度下の新島本村の所有財産に帰属したとしても村民にとつて何らの利害関係の変化を来たさないのである。」と結論づけるが、これは誤りである。村民も総有者であつた財産が行政村にいつたとすれば、それを使用する権利がたとえ島嶼町村制第五五条の旧慣として尊重されるとしても、村会の議決によつて変更又は廃止されることもありうるのであるから、民法上の権利として自らの意思によること以外失われることのない権利との間には利害関係について大きな変化がある。

ただ、町村制の実施によつても一村一部落で村の実態に変化がないということは、実質上村民の総代会とかわらない村議会が村民の権利を取り上げることはないだろうし、他集団から侵害をうけることもないと考えるというところから、二審判決のいう「連続性に欠けるところのない」生活共同体としての村民の集団、即ち部落がその権利についての独自の管理機構をつくる契機に乏しいというだけである。生活共同体としての住民の結合があり、その構成員がその構成員の資格において従前よりの権利の行使をつづけている限り、その結集体は権利の主体たりえ、権利は依然として存続することになる。入会権を行使していたものが、その際入会組合その他独自の管理機構をつくれば入会団体としての存在は明瞭になるが、目立つた機構をつくらなくとも、生活共同体として権利行使の実体があるかぎり入会権は失われない。

二、二審判決三五丁は「町村制の施行を巡つて従前の村がそのまま行政村になつたのか、行政村と部落共同体とに分離するに至つたのかは従前の村の所有した財産の帰属に関連して論ぜられる事柄である」というが、たしかに実際はそのような場合が多いであろうが、その際生活共同体として実体が存在しているかぎり、法理上に行政村と部落の分離はあるのであり、部落に帰属すべきか否かに論ずるに足る財産関係をもたない部落もありうるのである。このような部落が、のちに行政村とはなれて独自の財産をもつ場合を考えれば、単に観念上の問題だけではないことがわかる。

つづいて二審判決は「従前の村は行政目的に必要な庁舎等の行政的財産と、主として村民の経済生活の維持発展に寄与する山林原野等の一般財産を所有するのであるが」として、町村制施行の際数ヶ町村が合併して新町村を発足させる財産の帰属を論じ、その際旧村財産の財産区設立、個人名義への変更等とあわせて「何んらの措置も講ぜられない場合とがある」とし、後者の場合に「旧村の財産の帰属について見解が分れる」とする。しかし、二審判決はこれについて理論的解答をしていない。そしていきなり新島本村の場合について判断をしているのである。

新島本村の島嶼町村制施行に際して、旧村の財産について特別の措置をしていないので、制度上、理論上の考察を必要とするのである。

一審判決が引用している町村制施行に伴う合併標準についての明治二一年六月内務省訓令第三五一号(県甲一九号)は、合併をなすべき場合は「民法上ノ権利ハ合併ニ就キ関係ヲ有セサルモノトス」とし、町村住民等の共同所有、共同の山林原野等は「従来ノ儘タルヘシ」とし、一方「従来公用ニ供シタル財産(役場・病院……)」は「其所有権ハ新村ニ移スヘキモノトス」と規定し町村公共有と町村住民の私共有物とを明確に区別して取り扱つている。

幕政以来の村は、行政単位として側面と生活共同体としての側面が統合されていた実在的総合人であり、それが明治の改革によつてこの両側面が分離する傾向をたどつたが、明治二一年町村制施行にいたるまではなお、実在的総合人であつたことは前述のとおりである。この村の所有物は「共有」物と称されたが、これも右の二側面の分離の傾向に応じて公共有物と私共有物に区別される傾向を生じたことも前述のとおりである。この区別の基準は、一つはその処理が町村会の議定によるか否の形式によるものであつたか否かであることは前記第二、三、(五)にのべたところである。

他は生活のために運用されているか否かの実質的理由によるものであるが、これは制度面にも反映し、多くは一致している。

秣場、薪、材を採取する山林等が、行政目的のためのものでなく村民の生活のためにあることはいうまでもないであろう。これらは村が生活共同体の側面において所有してきた私共有物であり、それが入会によつて利用されてきたならば町村制施行によつて、入会団体としての性格をも有する部落の所有物に帰すべきものであつたのである(戒能前掲書、第四章第二節明治初年に於ける村落制度の変質と村持入会地の帰属関係三一二頁以下)。

三、これを本件山林についてみるとどうなるであろうか。新島本村においては島嶼町村制施行にいたるまでは村会がひらかれていなかつたのであるから、右の形式的区別基準によつても公共有物ということはできない。それどころか、これに先立つ約一〇年前におこつた石山事件においては、本件山林と同性質の土地の処理をめぐつて村民の総寄合がもたれ、村の正規構成員の殆んど全部が原告となつた訴訟がおこされ、その結果として「部落有」という確認がなされたことは、これらの土地が私共有地として認められていたことにほかならない。実体的にも、村民は共同体的規制の下にそこから薪をとり、椿の実をとり、石をとる等利用していたのであるから私共有地に該当するのである。

ことに島嶼町村制施行前に部分林として新島本村部落の正規構成員である本戸・半戸にのみ割当てられた本件山林中、物件目録(略)(一)の土地を含む土地については、私共有地であるからこそこの分割もできたのである。

四、本件山林等は、右のとおり島嶼町村制施行前は旧新島本村の私共有地というべき土地であり、これについて何んらの処分はとられていないのであるから、法制上は内務省訓令第三五一号により、また法理論上も新島本村部落の所有=総有地となるのである。二審判決も「地域住民の一般日常生活における互助組織」の存在を認めている(三七、三八丁)。即ち部落そのものが存続していたことを認めている部落は即ち入会権の主体であるとは限らないことはいうまでもないが、新島本村においては、本件山林等旧村の共有地について、薪、椿の実、石材、茅の採取、植樹等の利用がおこなわれていることを認めている(四四丁乃至六七丁)。

しかし、これらの現象を行政村がその財産を住民に利用させているもので、入会権行使ではないというのである。その根拠としては、村の規約類をあげているのである。しかし、一審判決も認めているとおり、村有椿林貸付規則は二〇年の期限があるにもかかわらず、割当て後一回も割替がなく、部分林をもつているものは本戸・半戸に限られることはどう理解するのであろうか。私有地の椿について今もなお「口開き」という規制がおこなわれているのは何故であろうか。これは、一審被告昭和五〇年一二月一五日付準備書面が「官地に入る日には、私有地、部分林の椿もとらないのは古来からの慣習である」というとおり、部落の共同体的規制がなお生きているのである。自家用石山について戦前は、本戸・半戸だけが自家山用組合に入れたことはそれについての規則の無関係におこなわれた(森阪利雄証言)のも慣習にもとずく運用であつたことを示す。民法第二六三条、二九四条をひくまでもなく入会権は慣習にもとづく権利である。それについての村の規則があるなしにかかわらず、慣習による処分、運営がなされ、規則があつてもそれが基準になつていず、共同体的規制による運営がなされている場合は入会権の行使であり、この利用者の結集体は入会団体である。

新島本村においては、本戸・半戸を中核とする部落が入会団体である。この団体の構成員と認められるのは慣習によるものであり、したがつて流動性はある。戦後において官地椿の口開けに本戸・半戸以外の村民も参加できるようになり、また自家用山にも入つてくるようになつたのは、この流動性による。しかし、戦後においても本戸・半戸以外は部分林を割当てられないこと、茅生地の分割は本戸・半戸だけによつておこなわれたことは、部落内の住民の階序と権利の優劣がなお保たれており団体性があることを示すのである。また昭和三四年からの自家用山への村営への移行にも各区の住民の同意を得た区の割当地域から順次移つていつたことも共有者の同意による共有地の処分とみるべきである。

これらの利用について行政村が関与していることは事実である。しかしこれは入会組合のように独自の管理機構がなかつたというよりは、その必要性がうすかつたことによる。一は、共有地の主要部分を占める部分林については個人所有地に近く、部落としての管理を要しなかつたことである。他の理由は島嶼町村制の施行にもかかわらず、その間に団体として実質上何ら変異なく、村民の共同生活体の連続性に欠けるところはない」(二審判決三六丁)状態であつたこと、即ち法制上の変遷にもかかわらず新島本村においては実在的総合人の性格がなお残されていたからであり、したがつて行政村も生活共同体たる部落の機能の一部を代位していたのである。被上告人村は、この地位において共有地の樹木の伐採を許し、管理費用を徴していた等である。しかし、これは本件の処分のように共有地の重要な部分の処分を許すものではなかつたのである。そのような処分は、石山事件、茅生地の分割、自家用石山の村営石山への移行の例の如く、本来の部落構成員の同意が必要である。入会権の処分として当然のことである。

二審判決は、本件山林等を下渡の当時から抽象的公法人である村の所有と誤判したため、島嶼町村制後の村民のその利用状態についてもいたるところ現実を無視し、経験則に反した認定をおこなつているのである。

第五、本件請求の当事者適格についての誤り。

原判決は、第一審原告らが入会権に基づき、その確認及び抹消登記手続を求める請求を、いずれも一審判決判示の説示を引用して、これと同一理由をもつて不適法とする。

つまり、右の如く引用の一審判決の関係説示によれば、本件確認請求訴訟は、入会団体の構成員全員の個有必要的共同訴訟であるのに、一審原告らは、入会団体構成員の一部にすぎないので、当事者適格を有せず、また入会団体の個々の構成員である入会権を管理処分する権能を有せず、単に入会地につき収益権を行使する機能を有するに過ぎないので、個々の構成員は、管理処分権の範ちゆうに属し、収益権の行使とは直接関係のない入会地たる本件土地についてなされた一審被告らのための抹消登記請求についても、当事者適格を有しないとするものである。

しかし、右の原判決の各判示は、入会権を抹殺せんがための観念上の所論であり、所栓国あるいは公的機関の施策には小さな個々の国民の権利の如きは何ら保護する必要はないとする政策論にほかならないものであり、入会権を権利として認めた民法の規定を全く死文化させる誤つた所論である。

入会権は、入会権者が生活上欠くべからざる財物を得ることにあり(大審昭和一一年(オ)第二一一六号昭和一四年一月二四日民五判)決して豊かとはいえない新島本村の入会住民にとつては、その生活上必要なものであり、このような権利を最大限尊重していくということが民主主義の根幹であり、まさに憲法前文及び同第一一条、同第一三条、同第二九条等の各規定の法旨に添う所以である。

従つて、入会権については、わずか一人でも訴の共同訴訟提起を拒むものがいる場合に、その者を訴訟に引き入れる、あるいは引き入れなくても所定の手続のもとに訴訟の結果を帰属させるといつた、訴訟法上の手続を現行法上欠いているものである以上は右憲法の各規定の趣旨並びに利益衡量あるいは公平上の見地等からして本訴一・二審にて一審原告が主張してきたように、一審原告らに前記各請求の当事者適格を認めるべきものであり、このように解することこそが正当な法解釈である。

原判決の右判示は、法の解釈、適用を誤つたものとして到底破棄を免れないものである。 以上

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例